聖書と科学、根本的見直し Bible and Science
聖書と科学
聖書はこの世界を創られたのが神であるという事を宣言しているだけではなく、神の世界の創造がどのように行われたかを簡単に記載している。これはプラトニック思想やアリストテレスの世界観という異教の人間が思い付いただけの世界観に対して、大胆にも神がこの世界を過去のある時点に無から創造された(しかも6日という短期間で)というドキュメントをもって対峙している。聖書の中には、地球が球体であって自転している事を示唆する記述もある。たとえばプラトニック哲学というプラトンのつくった世界観では、この見える感覚的世界は真実の存在ではなく、イデアこそが実在なのだとしたが、それに対してこのユダヤの思想は「神による6日間の世界創造」という驚くべき聖書の記述で立ち向かったのである。天と地はプラトニック主義者の言うような感覚的ではかないものではなく、創造主なる神の作品であり、明確に実在するものであるという主張である。しかし、そのような考え方は、聖書がキリスト教徒の手に渡って3,4世紀もしているうちに次第に変化してしまった。
誰でも知っているように中世カトリック教会は信仰の名前によって科学を迫害したが、それは聖書の教えに従っていたからではない。事実教会は初代教会の信仰を忘れ、現世的に堕落し、修道院に同性愛をはびこらせ、救いを金で買わせる免罪符を発行するほどのひどい堕落の底に沈んでいた。無知蒙昧な民衆にはネズミや蝿が沼の底の不潔な汚泥の中から自然発生するものであると大真面目に教えていた。聖書の戒めや救いの約束などは民衆に対して知らされないように情報ブロックをされていた。神学の面でもそれは本来のユダヤの聖書思想の継承ではなくて、異教であった古代ギリシアの哲学を奉じていたのである。西ヨーロッパの諸大学ではアリストテレスなどの古代ギリシアの哲学者の言葉が論理学や自然科学の教育の基礎となっていて、カトリック教会は聖書の権威を強化するためにそういう異教徒の著作を用いて、元来の聖書思想を排除していたのである。従ってたとえばガリレオの自然科学観がカトリックに糾弾された時も、実はガリレオは聖書に従わない事を裁かれたのではなく、カトリックが頼る所のアリストテレスの権威に従わない事を裁かれたのである。だから、中世カトリックが聖書に忠実であって、彼らの世界観は聖書の記述に根差したものであるというのは、実は、全く正しくない意図的な事実歪曲であり、大間違いなのだ。
その後ルターの宗教改革において教会が聖書を取り戻し、それゆえに「聖書と科学が一つに戻る」ことが出来たのだ。ガリレオもニュートンもケプラーも聖書に立って科学をしたのである。たとえばケプラーは神学を学んだ人であったが、神の創られた世界には必ず法則があるはずだと信じて天文学を学び、みずから惑星を観察していわゆる現代でも通用する「ケプラーの惑星運動の法則」を発見したのである。万有引力や力学の理論の基礎を立てたニュートンも神学者であるばかりか、自ら当時は死語廃語となっていたヘブル語をみずから学びトーラーを原語で自由に読んで、旧約のダイナミックな思想と教養を自在に活用することが出来るほどの研究者だったのだ。こうして、宗教改革が来て、自然科学は再び活気を取り戻し、物理や化学などで大きな発展が起こったのである。
ところが、聖書と科学は再び分断されてしまった。それを行ったのは皮肉にもいわゆる啓蒙思想というものだった。啓蒙思想は、無知蒙昧な民衆を中世カトリックの愚民支配体制下の思想活動の制約から解放するものとして各所で大歓迎されたのであるが、もちろんそれは純粋な解放ではなく、かえって人々の聖書への認識を再び闇にそらせるものであった。カントは科学的認識を観測可能で現象的に確定したものに限定することによって、皮肉にもアリストテレス哲学を繰り返し、その結果カントは科学と信仰との関係を切断し、信仰からいかなる客観的または存在論的な道標を奪い取って、逆に信仰を実在的な認識内容を全く持たない感覚的なものとしてしまった。その影響はヘーゲルらのドイツ観念論やロマン主義にも及びウィットゲンシュタインの分析科学や、西欧の科学文明主義の結論的成果は論理実証主義という流れをつくりあげ、それは20世紀末の今日まで至っているが、それは現代の常識人にとって納得の行くものとなっている。
近年の問題は近代のプロテスタント教会の神学がこのような一連の啓蒙思想以来の思想を文字通り無批判にミーハーで受け入れて「聖書は科学の本ではない」と言わしめるようになってしまったことだ。現代神学において科学者達が既にヘーゲルやラプラスなどの機械的決定論や止揚などの詭弁的レトリックを遥かに越えて素粒子の世界の偶然的秩序における理解可能な現象をより統一的に把握する方向に進んでいるのに対し、キリスト教神学は過去の二元論に根差す思考様式を未だ弄んでいる傾向にある。いわゆる自由主義神学というのは、みずからを相対的価値観の中に置いて状況倫理を論じたり、人間のあるべき本来の姿を啓蒙思想の創り出した理想に置いているので、いとも簡単に主観的になったり、善悪の判断が麻痺しても自分はそれでもいいのだと満足させてしまうという厄介な代物に成っている。ユダヤ教の世界にも同様な科学と信仰を切り離すような解釈がカバリストの手によって導入され、6日間の世界の創造も科学的な叙述ではないかのように教えている有り様である。
しかし、そういう矛盾したリベラルな聖書神学神学はもはや世界全体の理解の為には何の役にも立たない事を悟る必要がある。そんな考え方に骨髄まで染み渡った近代プロテスタント教会は、せっかく一致しかけた聖書と科学を再び切り離して「聖書は科学の本ではない」と公言するに至り、科学の思想を聖書の信仰と相容れないかのようにしてきたのだ。それどころか聖書の思想に科学の基礎を求めようとするのは、中世カトリック世界への逆行であるかのように教えている。そのような教えが偽りである事はこのすぐ上の前の段落を読めば既に明らかである。現在、聖書を神の言葉の啓示と信じるキリスト教会、ユダヤ教のシナゴーグでは、再び神がこの世界を創られた事に目を覚まし、会堂の中に寛容にも進化論を受容してきた事を反省する気運が生まれている。続続と新たに発見される生物学や地質学の発見はかえって神がこの世界を作られた事を証明する方向に流れている。世界を興奮させたビッグバン説も所詮は人間の作った感覚的思弁に過ぎない事が明らかになった。今こそ聖書の創造の事実に立ち返り神に栄光を帰する時である。
こうした流れをまとめてみると次のようになる。
古代ユダヤ世界/初代教会
聖書と科学は一つ。プラトン、アリストテレスの哲学を一掃する。
中世カトリック
聖書と科学の分断。科学の健全な発達を阻害し、アリストテレスを不朽の権威として押し付ける。(聖書と科学の暗黒時代)
宗教改革直後の時代
聖書と科学は一つ。ギリシャ・ローマ的異教の要素を一掃する。全く聖書的立場。(近代科学の誕生)
近代プロテスタント
聖書と科学は別のものであると主張するようになる。啓蒙主義と進化論の影響を受けて聖書の記述された真理を教会をあげて歪曲している状況。科学のパラダイムの進歩を停止させる姿勢である。
創造科学研究会/メシアニック/目覚めたプロテスタント
聖書と科学は一つ。啓蒙主義と進化論を排除する。聖書の記載を事実を記載したものであると受け入れ、精神主義的解釈を強要する神学を採用しない立場。神が6日間で世界を創造する事も神にとっては不可能ではなくそれを信じる事が聖書に教えられていると考える。
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