棺の中にNが横たわっていた。カツラをかぶり両手を胸の所で組んで目を閉じた青白い遺体であった。彼女の死を確かめたくて彼女の手にちょっと触れてみた。硬かった。急に私の目から涙がポロポロと流れ出した。逃げるように壇を降りて自分の席に戻ったが、涙はしばらく止みそうになかった。
Nと私は同じ日系銀行で働いていた。Nと私とEとKとYはその職場で仲良しグループを作り時々一緒に夕食を食べたりしていた。Nは絵が得意でグループの幹事的な存在だった。Nの死因は肝臓癌で享年43歳だった。忙しい職場から最後まで身を引くことなく、上司に遠慮しながら医者に通っていた。医者通いが多過ぎるというような苦情が上司から出ていたようだ。誰も彼女が死ぬほどの病に犯されているとは思わなかった。彼女の43歳という年齢が死という概念に容易に結び付かなかったからだ。彼女の遺族は銀行側を心良く思っていなかったと聞いている。
17年前に私がこの銀行に入行した時はまだ小さな銀行で、日本から派遣された企業戦士の男性行員達と、彼等の下で働く現地雇いの日本人女性、中国人とフィリピン人の男性と女性、ほんの少しの白人と日本人男性から成る50名位の組織であった。役付者達は毎日夜の8時とか9時頃まで残って働いていた。私も通信係として誰よりも早く出勤して誰よりも遅く帰宅していた時期があった。その頃は毎日14時間位銀行で過ごしていた事になる。まだ私も若かったので、それはそれで結構楽しく感じていた。銀行側も年に2回の課ごとの夕食会とか年1回のクリスマス・パーティーとかの行事を設けては行員達をねぎらっていた。そして我々現地組もまた企業戦士として成長していった。風邪などひいても仕事を休んだりはしなかった。1人欠けると周囲の人に迷惑がかかるのを知っていた。中にはノンビリした人もいたが、概して現地雇いの日本人女性達は猛烈な企業戦士に育っていった。仕事が命というような女性の役付者もいた。
入行11年目のバブルの真っ最中のある日、某英国系銀行との合併が発表された。その時の頭取の方針は、日本的経営を尊重してレイオフは行わないというものだった。しばらくして我々のオフィスがその英国系銀行の入居しているビルに移動する事になった。無事に移動を終えて2週間もしないうちに、親銀行のサンフランシスコ支店で働く我々のうちから7名の希望者を合併後の子銀行の方へ異動させるという計画が発表された。私は子銀行に異動したら新しい事が学べるのではないかと思い、早速手を上げた。Nのように病気になってもろくろく医者にも行かせてもらえないような支店の企業体質に少々疑問を感じ始めてもいた。希望者はあまり無く、結局、強制的に異動を申し渡された人が多かった。異動する際の条件は、2週間分の給料を余分にもらう事と、それまでの自分の有給休暇の日数と職場でのランクを保持する事だった。
異動の前に子銀行の人事部長の面接を受けた。不動産部の秘書のポジションが空いていたので、それを希望した所、人事部長は不動産部長との面接をアレンジしてくれた。そして私は不動産部に乗り込んで行った。不動産部長は、オランダ系アメリカ人で、その下に2人の白人男性、Pという白人女性、そして黒人女性が1人という構成になっていて、その中に私が入って行った。私は10年以上も通信係をしていたので、テレタイプやパソコンとの付き合いの方がタイプライターとの付き合いより長かった。不動産部での第1日目の仕事は、たくさんの封筒に名前と住所をタイプすることだった。そこのタイプライターに慣れていなくて少しモタモタしていた。さらに悪いことに、その日はユナイテッドウェイという事前事業団体への寄付を募るために毎年銀行が開いているミーティングの日に当っていて、それに参加せねばならず、仕事は益々はかどらなかった。夕方の5時が来ても仕事が終わらなかったのでオーバータイムでもして終そうかと思ったが、不動産部長の態度がちょっと変だったので、その日はさっさと帰る事にした。翌朝出勤するとPが私に人事部に行くように命令した。人事部ではタイピングの試験が待っていた。タイプライターの前に座り、1回だけ練習した後、いよいよ試験という事になった。その時私は気を静めるために神に祈った。そして本番。無我夢中でタイプを打ち、ネットで60語という結果を出した。(ネットで60語というのは余り良い数字ではないように思える方もおられるだろうが、私の小指がかなり短いため、指の長い人に比べてハンディキャップがある。)ネットで60語は銀行業界では十分な数字であった。そしたら人事部のアシスタントのフィリピン人の女性が「あなたはテレタイプをやっていたんだからタイピングに問題があるはずなんかないのよ。」と言った。そして私は不動産部から2日目にしてお払い箱になった。
その後は消費者融資部に回された。そこは大所帯で、白人男性が部長で、彼の秘書は白人女性、その下に住宅融資課、自動車融資課などの個人融資のための課が集まっていた。白人は少なく、黒人、フィリピン人が主で、中国人移民の男性が1人混じっていた。その中で私は住宅融資課を手伝った。個人が住宅融資を受けるために必要な書類を集める仕事であった。そこは融資キャンペーン中だったのでかなり忙しく活気があったが、ファイルなどはめちゃくちゃで、ファイルされるべき書類がただ箱にポンポンと入れられるだけなのを見てびっくりした。そこに1ヶ月もいただろうか。
人事部長からお呼出しがかかり、今度は信託部に行くことになった。信託部は個人信託課と従業員信託課と信託業務開発課から成っていた。最初は個人信託課に行かされた。課長はドイツ生まれの白人女性で、その下にカリブ海のどこかの島で生まれてイギリスで育った背の高い黒人と、ファイルと雑用専門の中南米系の高齢の白人女性がいた。そこに私が秘書として入ったが、手紙を打ったり、少々の事務が回ってくるだけで本格的な仕事はさせてもらえなかった。そのうちに課長は白人と黒人の混血で美人の若い女性を面接して雇った。私の方は、信託業務開発課の白人女性に望まれて彼女のアシスタントとして働くことになった。
信託業務開発課は、2人の白人女性の役付者から成っていた。そこでは顧客候補のデータベース作りをやった。そのうちに、2人のうちの1人が健康を理由に辞めて行ったが、辞める前に、彼女は私に「あなたは秘書として働くには頭が良過ぎる。」と言った。その時に、私は、アメリカの銀行における事務レベルの秘書の程度を思い知らされたような気がした。そうこうしているうちに、また人事部から呼び出されて人事部のアシスタントが休暇中だから人事部を手伝ってくれと言われた。
人事部では送られてくる履歴書に対する断りの手紙をタイプしたり、応募者の信用調査のようなことをやった。
人事部のアシスタントが休暇を終えて戻ってきたので、また信託部に舞い戻り、今度は従業員信託課の方を手伝うことになった。信託事業開発課ではすでに新しい秘書を外部から雇っていた。従業員信託課の課長は、白人女性で朝から昼頃まで部下を全員集めてやたらミーティングをしていた。それでいて顧客からの依頼を受けた書類は2ヶ月立っても顧客に渡せないでいたり、ファイリングはめちゃくちゃな状態であった。スタッフは9名ほどだったが、その課のめちゃくちゃ振りは目に余るものがあり、とうとう私は知り合いの日本からの派遣行員に相談した。彼は従業員信託課の課長がもっとしっかりしていると思っていたらしかった。私が子銀行で見た様々な事を話すと、彼は「合併する前は、派遣行員の現地雇いに対する割合が高かったけど、合併後はその割合が低すぎてとても下まで目が届かないよ。それにねえ。アメリカでは日本と違って専門職の人達は、皆、銀行の外に出てしまっているんだよ。」と言った。その後、従業員信託課はトップを入れ替えたりしてどんどんメンバーが変わっていった。と同時に、私は経営側のスパイだということになってしまったらしい。
その後私は国際部に回された。そこではロシア生まれの白人男性が部長で、その下に日本生まれでアメリカ育ちの有能な日本人女性、フィリピン人の女性と男性が2人ずつ、そしてアメリカ生まれの中国人女性が部長秘書をやっていた。そこは、前述の日本人女性が取り仕切っていたので、とてもしっかりしていた。そこで落ち着くかと思いきや、今度はアジア系企業部に行かされることになった。
そこには、日本生まれのゲイの男性のKと日本人女性の役付者が2人、他に台湾生まれの中国人男性と女性の役付者が1人ずついた。私はその中に加わって営業のサポートをしていた。その部に他の大きな銀行からアメリカ生まれの中国人男性のトップが迎えられ、それまでリーダー的な存在だったKは、そのトップと合わずにそこを去って行った。私もそのトップとは合わず、結局そこから日系企業部に回された。そこで落ち着くのが1番良かったのであろうが、親銀行の支店で通信係の主任をしていた私の給料とランクがそこのポジションに合わなかったので、私は落ち着くにも落ち着けないでいた。
そのうちに人事部から信用調査部に行くように言われた。個人融資のキャンペーンの真っ最中だったのでとても忙しかった。融資の際の個人の信用調査を毎日忙しくやっていたら人事部から呼ばれて、何だと思ったら、私のようなフローターと呼ばれる人員を削減することになったとの事、1ヶ月以内に落ち着く場所を決めて落ち着くか、勤務年数と給料から割り出した退職金をもらって辞める事のどちらかを選択するように言い渡された。辞める事も真剣に検討し、他社の面接を受けたり、知人の会社に空きが無いかどうかを聞いたりしてみたが、バブルが弾けたばかりとあって良い話はなかった。それに清水の舞台からとびおりるような気持ちで大分無理をして買ったばかりのマンションの支払いのことを考えると、慎重に対処せざるを得なかった。その時に空いていたポジションは自分のランクより数ランク下で、役付者としての肩書きを失うポジションだった。私は肩書きはまた取りかえせばいいと思っていた。
そのポジションはデータセンターと呼ばれる所の秘書役だった。イタリア系アメリカ人の白人男性のCがデータセンター長で、その下に現金管理事務課、夜と昼の2交替制の小切手処理課、コンピューター・オペレーション課、メール課、エンコーディング課(小切手の金額などをコンピューターに入力する課)があり、直接彼の下ではないが、行内訓練課や現金管理営業課なども入居していた。そこでは少数の白人、黒人、大多数のフィリピン人と中国人移民、アメリカ生まれの中国人女性のS、ハワイ州マウイ島生まれの日系3世のJが働いていた。総勢50名くらいだった。そこは、支店からほんの少し離れた所にあるオフィスだった。まだ若いCデータセンター長に面接を受けて採用が決まった。支店でスーツ姿の行員達に見慣れていた私はいたくカジュアルな姿で働く行員達を見て少し驚いた。ストレスなど全然感じられない彼等の表情を見て、最初は非常に好ましい印象を受けた。元行員で退職した後コンサルタントをしていた白人のWともう1人の白人が、オフィスの1室を借りて仕事をしているという事をしばらくしてから知った。
Cデータセンター長の秘書兼受付兼電話係というのが私の仕事の内容だったが、1日たったの3、4時間くらいで終わってしまうような仕事だった。電話もあまりかかって来なかった。Cデータセンター長もほとんどする事が無く、毎日、新聞を読んだり、コンサルタントのWの部屋に押しかけたり、その後彼と結婚する事になる女性が働いていた現金管理営業課に行っておしゃべりしていた。私の方は、コンピューターソフトの勉強をしたり、本を読んだりしていた。だだっ広いオフィスでほとんど誰も来ない場所で1人寂しく過ごす毎日が続いた。だんだんと随分変な所に来てしまったものだと思うようになった。しかし、突然レイオフを言い渡されて肩書まで無くしてしまったショックはかなり大きく、その心の痛手を癒すにはちょうど良い場所だったのかも知れない。それに私はマンションの支払いのために週末もアルバイトをしていたのでかなり疲れていたようだ。
ある日、人事部長がやって来て、5、6人にレイオフを言い渡して行った。私と親しかった白人女性のBもその中の1人であった。Cデータセンター長の部屋から泣きながら出てきたBは、「カジュアル・デー(毎週金曜日の普段着で働く日)にこんな大事な事を話すなんてひどい。あんな話は、ビジネスらしい服装をしている時に聞きたいものだ。」と私に言った。彼女は次の月曜日には出て来なかった。彼女がまた姿を見せた時に私がやったように居残りを勧めてみたが、適当なポジションも空いていなかったし、彼女の年老いた母親が病気だったので、その治療費を退職金でまかないたいとして辞めて行った。
その後、現金管理営業課の2人と行内訓練課の1人がレイオフされた。経費削減にさらに拍車がかかり、2つの階を占めていたオフィスを1つにまとめる事になった。コンサルタントのWのオフィスもなくなることになった。引っ越しを済ませて自分の席に落ち着いてみると、それまで周囲から隔離されていて見えなかったことが、徐々に見え始めた。行員がやたら病欠を取ること、8時間働くことになっているフルタイムの行員が、パートの人達に気づかいもせずに6時間そこそこで帰ってしまう事、役付者の中にもそういう人がいる事、遅刻、早退はあたりまえである事、下の者だけが働いて上の者はほどんどする事が無いこと、それにもかかわらず、誰かが辞めて行ったらすぐまた新しい人を採用している事、電話が鳴っても答えない人が多い事、赤ん坊を含めた行員達の家族がやたらに職場に遊びに来る事、夜勤の行員が日中に夫と供に職場に出て来て、銀行のコピー機を使ってせっせと私用のコピーをとってゆく事、それに対して誰も何も言わない事、ウオークマンやラジオを聞きながら仕事をしている事、等々、一応企業戦士に仕立て上げられている私の頭では到底理解できない事ばかりが目につくようになってしまった。その頃までには自分がレイオフされそうになった苦い経験は通り越して、目の前に繰り広げられるサーカスを毎日苦々しく眺めていた。日系3世のJは50代の女性で私にいろいろな事を教えてくれた。このオフィスが昔はゲイの人達の住み家であった事、エイズで死んだ前の人事部長がゲイだったのでゲイ達を多く雇った事、仕事の最中に職場を抜け出してバイオリンを習いに行っていたMというゲイの男が小切手処理課で昼の部の課長をしている事、日系人の自分が他の人種よりも多く働く事を期待されているという事、等々。私は彼女に「ここは全員を首にして、1からやり直さないと良くはならないね。誰1人としてここを良くしようなんて思っている人がいないのだもの。」と言った。私はそこを脱出すべくいろいろなポジションに応募してみたが、どこでも私を採用する意志は無く、外部から人を雇っている所も多かった。日本人であり元役付者などというのは扱いにくい存在であったに違いない。
私は高給をもらいながら何1つ手を打っていないCデータセンター長に対する反感を強めていった。一体全体死んでいったNは、どうしてあんなにまで遠慮しながら医者に行かなければならなかったのだろう。その一方でここでのような馬鹿馬鹿しいまでの腐敗を何故経営側は許しておくのだろうか。私にはまだ愛行精神があったし、日本人としてのプライドもあった。他の国の人ならば自分達の腐敗は経営陣の責任だとして笑っていられるのだろうが、私にはそれが出来なかった。まるで、自分、および自分の銀行、ひいては自分の国が馬鹿にされているように感じてしまっていた。
その頃、人事異動があり頭取が交替した。新しい頭取は、行内新聞や行員に自宅へのダイレクト・メールで行員達の気を引き締めようとした。私はこれに素直に反応してしまった。自分がレイオフされて職にもつけずマンションを手放さなければならなくなるかも知れないという恐れを振り捨てた。死んだNには何度も何度も心の中で詫びを言った。そして私は頭取に手紙を書いて腐敗しきった現場の様子を報告した。
その次の行内新聞に、頭取はコミニュケーションの大事さとか、自分の上司の能力を疑うのは良くないとか、問題があるなら人事部と話をしろとか書いておられたが、しばらくしてからCデータセンター長に少しプレッシャーがかけられ始めたのが感じられた。現金管理事務課から2人、メール課から1人、小切手処理課から4人、エンコーディング課から2人、レイオフされる事になった。そして辞めさせられた人達の後に、パート・タイマーを次から次に雇っていった。私はあきれてしまった。フル・タイマーがパート・タイマーを横目で見ながら、それまで通りに6、7時間働いて帰り続けていた。
私は自分がみじめだった。こんな所に居たら自分がダメになってしまうと強く思った。知人のヘッド・ハンターのTさんと彼の女友達のMさんに相談したら、経験豊富なMさんは、私に「自分の物差で人を計るのはおやめなさい。そういう職場に居るのなら、あなたも同じように働きなさい。アメリカでは銀行とか学校とか政府関係にはそんな職場が多いのです。あなたも子供でも持ってみたらわかります。あなたみたいな人は、テンポラリーでいろいろな会社を回ってみるのがいいでしょう。今どき、のれん分けなどしてもらえるわけではないし、愛社精神など振り回している人は日本にも居ません。まったくイヤな時代になりました。」と言ってくれた。知人のYはこう言った。「みんな生活がかかっているのよ。そういう事を考えたらあなたのやった事は残酷よ。」会社を経営する毒舌家の知人のKはこう言った。「30代までの人間というのはだましやすいけど、男の場合、40代にもなると白けているよ。」もう1人の知人の自営業者はこう言った。「君の気持ちは非常に良くわかるが、もう波風を立てずにだまっておとなしくしていなさい。」
頭取に出した手紙はロスアンゼルスの人事部で「日本語の手紙」として有名になったらしい。Cデータセンター長と私の仲は決定的に悪くなっていた。Cデータセンター長は、実に頭の良い男ではあったが、とびっきりの怠け者でかつ野心家で、ロスアンゼルスの彼の上司のポジションを将来自分が受け継ぐ事を目指していて、データセンターのことなどどうでもいい人だった。ある日、ロスアンゼルスの彼の上司のJ部長の上に外部から人を雇った時から、彼はすっかりやる気を無くしてしまった。もともと怠け者だった彼の遅刻、欠勤、早退が以前よりも目立つようになってしまった。彼に届いた行内メールも開かずに机の上に積んでおくだけになった。仕事は私が彼をプッシュしてやっとやるような状態だった。それまでは取らなかった休憩も取るようになり、まるで金魚の糞のように彼にまとわり付いているゲイの小切手処理課の昼の課長、Mがいつもお供していた。またCデータセンター長は、私に対して表面的に御機嫌取りをするようになった。秘書の日のプレゼントだとか、頭打ちになっていた私の給料を上げたりし始めた。私は彼のそんな手に乗りたくはなかった。
ある時、ロスアンゼルスのCデータセンター長の上司のJ部長が電話をしてきた。
「Cはいますか?」
「Cはただいま休憩中です。」
「Cは休憩など取ってはイカン。」
「彼の上司はあなたです。彼を監督する義務は私にはありません。私に怒っていただいても困ります。」
J部長は私の事が嫌いであった。私にこんな嫌味を言っておきながら、Cデータセンター長をそんな事で怒ったりは決してしなかったし、Cデータセンター長の行動は全然改まらなかった。Cデータセンター長はJ部長の腹心の部下だった。
機会をとらえて私は再度頭取に手紙を書いた。頭取は人事部に話をしてほしいようだったが、私は人事部を信用していなかった。以前働いていた人事部長とアシスタントの2人は、格下げになるのを嫌って辞めて行った。そして外部から新しく2人の白人女性が入って来た。その内の1人はとにかく仕事をやる気の無い人で、彼女の留守番電話に伝言を残したところで彼女から電話がかかってくる事は皆無だった。
ある日突然Cデータセンター長は、ロスアンゼルスに異動する事になった。J部長の部下の1人が辞めて行ったので、その変わりに行く事にしたのか、行かされたのか私は知らない。ロスアンゼルスで彼は90名くらいの部下を統率していると言う。人の目に付く所だけはとても良くやって、見えない所は全然やらないという男だったので、上司の目の届く所でよろしくやっている事だろう。
Cデータセンター長の後任に選ばれたのは、白人の働き者のナンバー2のLではなく、金魚の糞のMの方だった。Lは働き者で、怠け者のCデータセンター長のかわりに動き回っていたが、この予想外の展開にすっかり元気を無くしてしまった。Mは調子が良くて、人の御機嫌を取るのが上手で、母国語の英語がうまく書けなかった。(英語がうまく書けないアメリカ人は結構多い。)心ここにあらずのCデータセンター長は益々仕事の手を抜き、何だかんだと理由をつけては休み、自分の都合で転勤を引き延ばしていたが、転勤の発表があってから3ヶ月ほどしてロサンゼルスに去って行った。LがCデータセンター長にさよならのケーキ・パーティーを開くことはなかった。
新データセンター長のMは、肩書をもらい、名刺を作り、自分の新しい金魚の糞のフィリピン人女性にかしずかれて毎日幸せそうだった。午後になるとゲイ仲間からしばしば電話が入り、彼等と長話をするというのが彼の日課であった。少なくとも私がプッシュしなくても物事が動くのは大助かりであった。
今年の1月2日に私は休暇で弟が働いていたチュニジア共和国のチュニスに遊びに出かけた。サンフランシスコからニューヨーク、フランクフルト経由でチュニスまで約24時間かかった。腐った職場からたとえひとときでも離れてみると、いつも自分の心が生き返るような気がするのだった。それで私は金もないのに無理してよく旅行した。アフリカの大地にはアメリカ大陸とはまた違った味わいがあるような気がする。弟に私の職場の事を話したら、彼は「職場を良くしようというエネルギーがあるんだったら、自分を良くする事に使え。」とアドバイスしてくれた。
ローマやポンペイ、ナポリ、ソレントまで足をのばした16日間の旅の終わりが来た。チュニスからパリ、パリからシンシナチと飛んで、そこで6時間ほどの待ち時間があった。疲れてはいても眠れはしなかった。しょうがないので待合室に備え付けてあるCNNのテレビ放送を見ていたら何やら大惨事が起ったような報道で、「まあ、お気の毒に。」と思ったのもつかの間、何となくこれは日本での出来事みたいだなと気が付いた。そして神戸という名前が出て来ると、私は異常に興奮し始め「こんな風に一生かかって築いてきたものを一瞬の内にすべて無くしてしまう人もいるんだ。」という思いに強く捕われてしまった。
職場に戻っても阪神大震災のインパクトは続いていた。職場は相変わらずだったが、あの地震の後、私の心中には蛮勇に近いものが芽生え始めていた。ある日、行内訓練のスケジュール表が届いた。私はその中の貿易金融セミナーに参加したいと思ってMデータセンター長に申し出た。彼はしぶしぷ申し込み用紙に署名してくれたが、「ロスアンゼルスのJ部長は承認しないだろう。」と言った。私もJ部長が反対するだろうと思っていた。彼は私を嫌っていたので、彼がそれを妨害する事など目に見えていた。そこで私はロスアンゼルスの人事部の行内訓練課の人と貿易金融部長に話を付けて、セミナーに出席出来るように水面下で動いてみた。人事部からセミナー会場への行き方を書いた書類が送られてきたので、Mデータセンター長にセミナーに出席するので1日休みをもらいたいと言ったら、彼は声を大きくして、
「そんな馬鹿な。J部長は許可していない。」
「人事部の行内訓練課の人と貿易金融部の部長からは許可をもらっていますけど...。どうしてもダメだとおしゃるんでしたら、自分の休暇を取って行ってきますけど...。」
「ダメです。」
「じゃ、人事部に行って話してきます。」
「....。」
私は人事部に行ったところでどうにもならないのを知っていた。何故なら、サンフランシスコの人事部長のBは、ロスアンゼルスのJ部長と仲の良い彼女の上司のロスアンゼルスの人事部長のFには逆らえないのを知っていたし、Mデータセンター長はやたらにサンフランシスコの人事部に入りびたり、B部長と彼女のアシスタントのGにおべっかを使っているのを知っていたからだ。B部長は自分がトラブルに巻き込まれたくないので、Gに私の相手をさせようとした。私はGのどうにもならない仕事振りを見聞きしていたので、直接B部長と話をしたかったが、門前払いをされた。仕方なくGに苦情を言ったが、それでらちがあくはずも無く、次の日にB部長を待ち伏せして話を聞いてくれる事を迫った。
「どうしてセミナーに行ってはいけないのですか?」
「あなたの仕事には関係がないからです。」
「以前、親銀行の支店の方で信用状などと関係のある仕事をしていたわけですし、関係がまったく無いとも言い切れませんが。」
「今現在の仕事には関係が無いからです。」
「たとえポジションが空いていないとしても、下の者が勉強したいという意欲を示しているのにその意欲を殺すのが人事部のつとめなのですか?たった1日の、それも自分の休暇を使って行くと言っているセミナーが何ですか。行かせてやれば、下の者の気だっておさまるというものではありませんか。データセンターのような役付者ですらもきちんと8時間働かずに帰ってしまうような腐った場所を早く出たいのです。そのためにもいろいろなセミナーに参加しておきたいのです。」
「そんなに自分の居る所がイヤなら、どうして銀行を辞めないのですか?」
「私はこの銀行に対して愛着を持っているからです。この銀行に少しでも良くなって欲しいし、自分も出来ればそれを外部の人間としてではなく、内部の人間として見守っていきたいんです。」
「とにかくセミナーには参加してはいけません。」
「そうですか。」
その時はいったん諦めかけていた私であったが、考えれば考えるほど彼等の言いなりになる事が馬鹿馬鹿しく思えてきた。万難を排して休暇を取ってセミナーに出てやろうと決心したのは、その夜の事だった。翌朝データセンター長のMに言った。
「明日休暇を取りたいのですが。」
「いいでしょう。」
セミナーの会場では貿易金融部長が私を歓迎してくれた。
「あなたは今いる所から早く出た方がいいね。あなたが今日のセミナーには出席しなかったという事にしておこう。」
「その方がいいと思います。」
翌日、私は意気揚々として出勤した。もちろん私とデータセンター長のMとの仲は益々緊張を増していた。どこか良さそうなポジションが空いていないか探していたが無かった。緊張状態が最高潮に達したある日、私はとうとう大それた事をやってのけた。その時は前の頭取が栄転してニューヨークに去り、新しい頭取が就任されたばかりであったので、今度は入行した時から面識のある副頭取的な人に電話をかけた。
「最近組織が腐っていると思うんですけどどう思われますか?」
「その通りです。問題があるのならロスアンゼルスの人事部長のFに言いなさい。そうしなかったら何も変わりませんよ。」
「私はそのF人事部長すら信用できません。」
と言いたかったのだが、とうとう言い出せないでしまった。
ある日、1つの事件が起きた。勤務中にウオークマンを聞いていたフィリピン人の女性のEに仕事の事で話しかけた黒人女性のFがそのフィリピン人女性を相手に大口論してしまったのだ。Eはウオークマンから流れてくる音楽にでも夢中になっていたのであろう。Fの話が良く聞き取れなかったEはFに返事をしなかったのだ。それが原因で2人は大げんかを始めてしまった。Eは神経質でちょっとの事でも医者に行く人だった。その時の口論が原因で、自分の精神がとても不安定になったとかで医者に行ってしまった。Eはたいした事もないのに職場に救急車まで呼んでしまったりする人で、いつも何だかんだと理由を付けては医者に行き、その費用は銀行にもたせていた。私は虫の居所が悪かったので、その事をロスアンゼルスの人事部長のFに問いただしてみた。つまり、勤務中にラジオやウオークマンを使用するのは、行則に反していないかどうか教えてくれと迫ってみた。銀行の人事マニュアルは、その事について言及していなかったのである。
数日後、データセンター長のMとロスアンゼルスのF人事部長とMの上司のJとの間でいろいろと電話でやり合っている感じが伝わってきた。ある日、ほとんど何もしないでラジオを聞きながら新聞を読んで毎日を過ごしていた怠け者のメール課の課長が急にラジオを聞くのをやめてしまった。しばらくしてF人事部長から返事が届いた。その返事の入っていた封筒は「親展」になっていたが、1度開けられた形跡があった。おそらくメール課の連中が開けでもしたのであろう。日本から送られた銀行の顧客用のカレンダーを1箱そっくり紛失してしまったり、メール袋を次から次に無くしてしまうようなメール課の事だもの信用できたものではない。F人事部長の返事は、
「職場でのラジオやウオークマンの使用については、各部のトップの判断にまかせます。」
というものであった。私はどうせそんな答が返ってくるだろうと思っていたので別に驚きはしなかった。
3月は私の勤務評定を人事部に提出する月だったので、データセンター長のMに催促してみたが、彼は「ちょっと待って欲しい。」と言ったきりいつまでも取りかかる気配がなかった。何かがピーンと張りつめた毎日だった。
ある日、サンフランシスコの人事部長のアシスタントのGがやって来た。彼女はMデータセンター長のオフィスに入って行った。Mデータセンター長は、自分のオフィスから出てきて小切手処理課の机の上にあったちり紙の箱を手に持ってまた再び自分のオフィスに入って行った。そして私と結構仲の良かった現金管理事務課の黒人のBが呼ばれた。オフィスのドアが閉まった。秘密の話をする時はいつもそうだった。Bがせいせいした表情で出て来た。私は彼女に「何をいわれたの?」と聞いたら「今にわかるわよ。」と言って私の前を去った。次は私が呼ばれた。まずMデータセンター長が私に書類を手渡して1番上の手紙を読むように指示した。その人事部からの手紙を読み終えて顔を上げたら、Mデータセンター長がこう言った。
「ちょっと僕の胸が痛むのですが、あなたのポジションを週30時間のパートのポジションにします。」
「そんな事はもうずっと前にやるべきだったんです。一応まだ1ヶ月あるとこの手紙に書いてありますから、内部で異動出来れば異動しますが、週30時間のパート・タイマーとしてここに居残る気はありません。私はここが大嫌いです。私とBのほかに誰がレイオフされるのですか?」
「ほかにもいますが、彼等の名前は出せません。」
とMが言った。私はMデータセンター長の用意したちり紙のお世話にもならず彼のオフィスを退出した。そして自分の机に戻り、やりかけの仕事に取り組んだ。人事部のGが帰っていったので、私は昼の部で辞めさせられるのは私とBの2人だけだと悟った。最後の仕事をしていたら、Mデータセンター長が近寄って来て私にこう言った。
「仕事はSにやらせますから、あなたはもう帰っていいです。」
「私の国には飛ぶ鳥、後を濁さずということわざがありますから、せめてやりかけのこの仕事だけでも終わらせてからにします。」
と言って仕事を続けた。それが終わってから自分の机をかたづけ始めた。自分の物は一切残さないようにしたかった。ナンバー2のLが紙袋を2袋持ってきてくれたので、それにすべて詰め込んだ。私に何かにつけてサービスしたがったアメリカ生まれの中国人でレズビアンのSとさよならの握手をし、現金管理課とメール課を回って別れの挨拶をして、カードキーというオフィスに入るのに必要なカードをMデータセンター長に返却して職場を退出した。エレベーターで1階に降り、そこでビタミン剤などを売っている店に立ち寄った。その店の店主は黒人と日本人の混血の女性で、私は時々彼女に職場の事などを話していた。彼女にもさよならが言いたかった。彼女と話をしているうちに、私の目から涙がどんどん流れてきた。彼女が涙をふくちり紙をくれた。彼女が銀行とは関係の無い人間であったために、ついつい私の気がゆるんでしまったようだ。外は雨だった。重い2つの紙袋が雨にぬれて破れそうだったが、どうやら無事に我が家にたどり着いた。
翌日は1日中どしゃ降りの雨でなんとなく銀行を辞めさせられつつある者と辞めさせつつある者の心を象徴しているような気がした。
銀行内部での異動の可能性を求めて1ヶ所あたってみたが、そこは自分の今の給料を500ドル以上下げなければ雇わないという事だったのでお断り申し上げた。
かくして私は17年勤めた銀行から卒業する事になった。今は翻訳や通訳をしながら命の洗濯をしているが、今度同じような状況に身を置く事があるとしたら、もっと早く、そしてもっと静かに卒業してゆくのではないだろうかと思っている。ある意味でやっと私もアメリカ人並に終身雇用のくびきから解放されて、もっと自由に生きられるようになれたのかも知れないと思っている。「人はパンのみにて生きるにあらず。」という聖書の言葉は私の好きな言葉の1つであるが、パンが無くても生きてゆけないこの世の中を私や私のせいで辞めさせられた人達は、今後どうやって生き抜いてゆくのだろうか。皆さんの幸運を祈ります。
私の日本人としてのプライドを根底からゆさぶったオウムの地下鉄サリン事件が起きたのは私が失業してから間もなくの事であった。