ある日私は友人のGに連れられて、Gの友人の引っ越しの手伝いに出かけた。作家であり、また作詞・作曲もやるという83才の老人の話をGからたびたび聞かされていた私は、彼に少なからずの興味を感じていた。Gは彼のことを先生と呼んでいた。
先生のアパートはサンノゼにあった。共同台所と共同トイレという至って貧しく薄汚いアパートの一室に先生は一人で暮らしていた。83才には見えないほど若々しい先生は、引っ越し準備で散らかった部屋に我々を迎え入れると、早速果物やお菓子を勧める一方で、素晴らしい話術で尽きないおしゃべりに興じるのだった。幼くして母親に死別し、厳格な伯母に育てられ、時々訪れる父親に甘やかされるのが最高の楽しみだったとか、スイスで音楽の勉強をしていた時の話とか、ある会合で講演をして金持ちの婦人にたくさんの報酬をもらった話とか、トーマス・エジソンの伝記の中の話とかを延々と続けていくのだった。
「私には、自分が本当に納得できる1節を書き上げることの方が、1000ドルの儲けよりも嬉しく感じられるのですよ。」と先生が言った時には、私はさもありなんと思った。
「私も結婚していた時がありましてね。」と彼が言い出したので、彼が離婚したという話をGから聞いていた私は、「どうして再婚なさらなかったのですか?」と聞いてみた。
「離婚した時の胸の痛みがいつまでも残っていましたし、年とともに趣味がうるさくなっていきましてね...。私と結婚をしたがった2人の女性とは私の方でその気がありませんでしたし、私が結婚したいと思った2人の女性とは相手にその気がなかったという具合でした。結婚というのは、2つの違った個性がぶつかり合ってだんだん丸くなっていく作業だと思うんですよ。私も年をとったら一緒に生活してくれる女の人が欲しくなりました。でも若い人ではダメです。私と同年代の人でないとね。」と、至って正直に胸の内を語ってくれた。
大分昼も下がった頃、思い出したように3人は引っ越しの作業にとりかかった。あまり物は多くなく、2度の運搬で済みそうだった。新居は同じサンノゼの高級住宅街にある1戸建ての1室であった。レストランを経営するMという独身の篤志家が提供してくれたものだった。小石を敷きつめた庭にブーゲンビリアや名も知らぬ花々が美しく咲いていた。家の扉にはわらで作った輪の中にちょこんと納まった可愛らしいわら人形が飾られてていた。ベルを鳴らしても返事がないのでドアを押してみると鍵はかかっておらず、3人は家の中に入ることができた。
ああ、なんという美しさであろう。高級ホテルのロビーのようにすべてが整い、美しい調度の数々で飾られた部屋のたたずまいに3人はただうっとりするばかりであった。
先生は、「なんという違いなのだろう。」とため息をつき、それに対してGがなぐさめるように、「でも、先生。富というのは1代のもので、自分が死んでしまったらおしまいだけど、先生の残してゆく作品の数々は多くの人々に喜びを与え続けることができるし、時代を越えて生き続ける可能性を持っているではないですか。」と言った。そんなふうに3人がそれぞれの思いにふけっているところに、別室でボソボソと電話で仕事の話をしていたMは、会話を打ち切って我々に挨拶をしに出てきた。Mはいかにもビジネスマンという感じの40代のがっしりした大男であった。
「ようこそ。今日は忙しくてあまりおかまいもできませんが、ごゆっくりどうぞ。飲み物は何がいいですか?何でもありますから。」とMが聞いたので、私はスコッチの水割り、Gはワイン、先生はお茶をいただくことにした。中国調のソファーに腰を降ろして観葉植物やガラスケースに入った物珍しい船とか人形とかの置き物や壁にかかった中国画などを眺めているうちにMが飲み物を運んできてくれた。サイドテーブルの上に置いてある色ガラスの角ランプが目を引いた。電話がひっきりなしにかかってきて、Mはそのたびに席をはずさねばならなかった。
「ところで今夜はどうしますか?うちのレストランで食事していただいてもいいんですが。」とMが言ったので、Gが「せっかくですが友人のPの家の夕食に招待されていますから、先生のアパートにいったん戻って荷物を積み込んでからPの家に行って食事をして、その後でまたこちらに戻って来ようと思っています。」というと、Mは「そうですか、僕は今日はとても疲れていますので、早めに寝ようと思っていますから、お帰りになったら御自由に部屋にお入りください。これが家の鍵です。」と言った。
4人は立ち上がって先生のために用意された2階の1部屋に荷物を運んだ。ちょっと小さめだったが、一面の壁が鏡になっている豪華な部屋だった。先生は早速モジリアニの複製を壁にかけて眺めていた。他の物はただ部屋に運び入れるだけにして、3人はMに別れを告げた。
先生のアパートに戻って残りの引っ越し作業にかかった頃には日もすっかり落ちていた。先生は大事にしている100年以上の歴史を持つというバイオリンを見せてくれた。この弓には1000ドル以上の値が付けられていると言って、2本のうちの1本を手に取って見せてくれた。すべての物を車に載せ終わり、アパートの入口の所で出会った近所の男の子に先生はさよならを言った。
P夫妻はアパート住まいだった。Gの話によると、Pが子供もできたしいよいよマイホームを購入しようと思った矢先に、作業をしていた電信柱から落ちて背骨を打ち、それ以来腰の痛みに苦しみながら家で休養しているという。
Pは毛深くて背は高くないが体の大きな男であった。Pの奥さんは、色が白くて豊かな胸をしたおとなしそうな女(ひと)だった。子供が1人いた。長いまつげが大きな目をさらに大きく見せていて、フランス人形のようにかわいい女の子だった。髪の毛は栗色でウェーブがかかっていた。Gによくなついていて、私にも好奇心を押さえきれずに近づいてきた。Pの不幸な出来事にもかかわらず、そこにはなんとも知れぬ安らぎがあった。先生の前のアパートにもなく、Mの家にもない暖かみであった。私自身の生活のレベルとP夫妻の生活のレベルが共通していたからだけなのかも知れないが、私の心はP夫妻のアパートで一番安定した。腰の病の治し方とか、新しく買ったレコードの話とかを話題にしながら、女の子の遊び相手をしているうちに食事の準備ができて、5人の大人と1人の子供は食卓を囲んだ。ハッカの入ったサラダがとてもおいしかった。
アラックという乳白色の飲み物を飲みながら、政治とセックスを話題にしたジョークをポンポン飛ばしながら3人の男達は上機嫌だった。先生から日本のジョークを披露するように要望されたけれども、日本には日本語がわからないとだめなしゃれという言葉の遊びしかないからと言い訳をして断った。
彼らのジョークの発表会は延々と続いた。よく聞いてみたら、何度もGから聞かされているのと同じものが、Pの口から出たり先生の口から出てきたりした。つまりは皆で聞き古したジョークの反復練習をやっているようなものだった。そして皆初めて聞いた話でもあるかのようににぎやかに笑い合った。もしかしたら彼等は、話の内容よりも誰が最も面白おかしく話を披露できるかという競争をしていたのかも知れない。
デザートにりんごとオレンジ、クッキー、トルコ風のドロリとしたコーヒーが出された。男達の話は尽きそうにもなかった。夜は更けてゆき、気が付いてみたら女の子は1人で居間の床に寝そべっていた。夜更かしに慣れぬ私は大分疲れが出ていた。私の眠そうな目を横目で見て、Gは帰宅をうながしたが、先生もPもまだまだ頑張れそうな雰囲気で、Pは私とGに泊まってゆけと勧めてくれたが、Gが辞退した。いよいよ帰ろうと立ち上がった時に、車に置いておくのが心配で持参してきていた先生のバイオリンにPの目が行った。是非1曲とのPの要望に先生が心よく答え、ミニ・ホーム・コンサートの開幕となった。一同は居間のソファーに座り直して先生の引くバイオリンに耳を傾けた。私は楽器をこなせるというのは良いものだとしみじみ思った。1曲ではおさまらずにアンコールの後、全員の拍手で終わった。先生は一安心して大事そうにバイオリンをケースに納めた。
3人はP夫妻のアパートを出て、Mの家に向かった。寝てしまったMを起こさないように気づかいながら静かに最後の荷物運びをした。それも終わって先生に見送られてGと私がサンフランシスコへの帰途についたのは午前3時であった。